旨い鰻と人生観と

 ■ 先日、名古屋駅にある寿司屋で「うな丼」を食べた。値段は1800円。うな丼が来るまでの間は、生ビール(大)片手に鮭のハラス塩焼きをつつく。

しっかり皮がパリッと焼かれ腹はじゅわっと脂とホロ軟らかな身は、適度な塩気でビールがどんどんすすんだ。

うな丼もふあふあでほろほろな身とパリっとしたタレの香ばしい皮で一口食べる毎に「俺、うなぎ食ってる」と実感できる満足のいく一品だった。

2013-07-26 18.36.15

個人的には吉野家の鰻というのもありだと思っている。
あの価格で手早く鰻の味が楽しめるのだ、中国産で多少身がぱさついてたり大量生産で焼き加減が不満でも、低価格で普段食べれない「鰻」が食べれることにメリットがある、それが牛丼チェーンの鰻の立ち位置だろうと思う。

それを踏まえ、先日食べた「うな丼」は「ちゃんとした鰻食ってる」という満足があった。価格の差がイコールで品質ではないが、食において提供の場と価格の違いで得られる満足感の質は違うものだという良い例だろう。

ここ最近の至福の時間は、一人でゆっくりと時間を過ごす事だったりする。

ゆっくり過ごす時間。
男の独り身だと、活発に活動するかダラダラ過ごすかの二択両極端だったりする事が多い気がする。

のんびり過ごしてたつもりが、単にダラダラ寝てるだけや、ゲームやってるだけだったりして時間が過ぎる。これは「ゆっくり過ごす」では無いと最近気がついた。ダラダラとゆっくりは違うのだ。

コレは年齢を重ねて得た感覚なのか?それとも「その日暮らし」という刹那的な生き方をしているせいだろうか?個人的価値観がここ数年で変わってきた気がする。

「その日暮らし」と書いたが、人生三十年と半近く生きてきて、世間的には「情けない」事に、貯金なしの日雇い労働生活である。

ただし、自由すぎる程に自由に生きている。
生き方について色々考えることはあるが、生き方の今の価値観に関しては考えると言うよりは感じていることの方が多い。

一日働いて、その日の収入の3分の1から半分も使い、飯食って酒飲んで。個人的にこの生活は性に合っているのかもしれない。

確かに将来への拭えない不安や、直面する経済危機に常に晒されるストレスなんてリスクも大きいが、コレはコレで切り抜ける方法があるわけだし、100%どうにもならない時はしょうがないのだ。どうにかなるようになるしかないのだ。

そうならないように、用意周到に準備して生きていくのが現代人の生き方であり、その日暮らしでもソレくらいはできる。これは過去からの経験の積み重ねだろう。

価値観と言うのは今の日本現代社会において、どれほどの意味があるのだろうか?

「定義の曖昧さ」
「裕福」と「貧乏」貧富の差なんてものが金銭の持ち合わせだけで語れる時代は、高度急成長期からバブル経済崩壊の90年代までで崩壊したんじゃないか?
少なくとも2000年以降は、お金持ちと言われる人達は昔のソレと違う生き方をしている気がするし、お金自体の価値観というか重みが変化し、国内政治的状況で根本は同じかもしれないが、色々考え方まで右往左往させられている。
一概に金銭の持ち合わせが「裕福」と「貧乏」の基準じゃない気がする。いや、不適格だな。「裕福・貧乏」ではなく「幸か不幸か」と言い換えたほうがいいのか?金銭が関わると「裕福と貧乏」で良いのかな?

なんにせよ、個人的にこのライフスタイルが性に合っているというのが解ってきたので、正直精神的ストレスが昔よりは少なくなった。例え手元に1000円しかなく、収入が5日後でもかなり気楽に過ごせるだろう。

それはそれなりに過ごす方法を身に着けているし、ソレくらいでは死なないと経験上わかっているからだ。それでいて「人生最大の敵は退屈だ」とは何の言葉だったか?今の時代、退屈しのぎは実に多い。こうやって駄文を書き連ねているだけでも退屈はしない。

そうそう、名古屋はホームレスの人達をよく見かける土地だ。自分も明日は我が身だという意識を持って見てたりもするが、かの人達を見ていると実に興味深かったりもする。かの人達は時間の流れが圧倒的に違う場所で生きているのだ。

先日マクドナルドでのんびりしていると、ホームレスとおぼしき方が店の片隅に座っていた。山から降りてきたかのような風貌をしたその人は、火事場から拾ってきたのか?と思うほどボロボロな雑誌のようなものを読みながら、時折これまたボロボロになったメモ帳らしきものに何かを書き込んでいた。

ソレを眺めてて思った。自分はのんびりしているとは言え片手にスマートフォン持ってTwitterやったり一方通行に外と繋がっているオンライン的な時間の潰し方だ。これが今は当たり前になっている。

ところが、かの人は完全オフラインであり、唯一のコンテンツといえばボロボロの雑誌らしきもの。メモ帳らしきものもボロボロで更に至る所に色々書き込んであり、何が書いてあるか本人にしか解らないであろう。

そう、本来それで、それだけで十分だという典型例ではないか?
先にも書いたが、今の時代は価値観も楽しみ方も選択の自由度が増えたことで、色々曖昧になっている。

ソレが故に「個人」が解らなくなってきているのかもしれない。

かの人を眺めていて思ったのは、どんな形でも「自分のある生き方」を見つけれたら、望む望まず関係無しにそれが生き方なんだと言う事。出来れば自分が望む自分を見つけたい所だが、最低限「他人・環境・流れに合わせるのが自分」という枠にがっちり収まらないスタイルは持ちたいと、コーラの入っていない紙コップの氷の溶けた水を飲みながら感じ考えた。