ただ書き殴ってみる。

注意:今回のPOSTは非常に自虐的な自分の思いを、ただ書き殴っただけの日記です。不快に思われる人も居ると思いますので、自己嫌悪と自虐を見るのが不愉快に思う人は観覧を控えて頂ければ良いかと思います。

■ 自分という人間は「情けないだけの存在である」自分ではそう思っている。

 それは、今まで生きてきた生い立ちから自分を責め悩んでいるだけの自虐なのは知っている。
自分では自分の価値という物に気がつかないものだし、それを見つけたからと簡単に伸びるものでは無いだろう。人間というのは自己を認識する時、特に自分の価値という物は他者「第三者」に見出されることで認識する。そう言うものだろうと個人的には考えている。

 矛盾するが、だから自分で自分の価値を決めることはできないのだ。でも、自分は情けない存在だと思っているのは確かであり、それは決して拭いきれない。だからこそ、自分は情けない存在なんだ。他人と触れ合わなければ傷付くことは無い。正直自分を守る為に、今の自分はそういった所に逃げ込んでいる。逃避行動は別に悪いことじゃない防衛本能であり自然なことだ。それは罪じゃ無いし誰もそれを責めることはできないはずだ。

 それを責め立てるのは責め立てる人間の考えや、正直もって非常にくだらないと個人的に思う社会システム上からの押しつけ価値観。特に日本というのはそういう国になっている。周りを変えることの意味が間違えている。箱の中に押し込めることを「変化」そして「常識」として「ルール」にする節がとても強い国になってしまっていると感じる。

 
話がずれた。

 とにかく、自分は自分を情けないだけの存在として感じているのだ。全く情けないことだがそれが事実だ。

 そしてその情けない由縁は生きる目的とか何とか、そんな物を永遠と考えるだけの行動にも見られる。そんな物、いや、そんな事なのだろうか?どっちでも良いか。とにかく自分というのは生きる目的や目標なんかを常に考えて悩んで結果を出せずに、只、ただ、唯、悩んで考えてそうやって数年間生きてきた。いやもう二桁になるのか十数年生きてきたのか。

何故悩み考えるだけなのか?少なくとも自分は、自分が今を生きている事へ罪の意識がある。

 原因は過去の自分の環境と行動。深く深く潜って考えると幼少の頃の思い出から始まる。だが、そんなの誰にでもある。自分の過去を許せなかったり罪に思ったり、悔いて恨んで。そんなの誰でも持っているのだ。だけど人間というのは判るのは自分のことだけで、そして判らないのも自分のことだけなんだ。だから悩んでいる。自分を罪と責めるのだ。

 人間の歴史を振り返ると、誰が見てきた訳でも無いのに「古代ギリシャ」の学者様も思い悩んでしかも結論にたどり着いたと言われている。宗教なんか人生の悩みを解決しちゃっているのである。とてもじゃないが、今こうやって思い悩んで苦しんでいる人間として、それを信じて信用して信仰して楽になれるとは思えない。そう、思えない時点で自分はまた情けない人間なのである。

 神様が居るとして、いや、神様は居るのだろう。個人的に興味のあるオカルト的な観点からしても神様は居ると「思う」。実証はできないがそう思えば居るのであろう。そういう設定で物事が、歴史が動いてきたのだ。だから個人的には「神様は居る」と思っている。

 そして神様が居るとして、自分は神様に何を願うのだろうか?そもそも神様というのは人間の願いを叶える存在なのだろうか?各宗教によって考え方が違うであろうが、日本の一般的な考え方はどうだ?神社に行って賽銭投げて願い事を願う風習がある。そう、神様は願いを叶えてくれる存在なのだ。「困った時の神頼み」責任の一端を神様に投げっぱなしジャーマンスープレックス。それがジャパニーズスタイル。自分のことは神様に頼んでおけば良いのだ。

つ「責任転嫁」

日本の政治のグダグダっぷりは、日本人のそれなんだと気がつく一瞬である。

それを考えても、情けない。自分は情けない存在なのである。

 人間の存在ってなんだろうか?一時思い悩んで行き着いた一つの認識に「誰かが認識しないと自分の証明は証明できない」とか言う小難しい考えがある。「世の中0か1、オンかオフ、有るか無いか」なんて学者先生が何とか論とか言いながら研究しているようなアレである。

ただ、そこの考えが行き着いた所で何も悩みは解決しなかった。残念。

 こうやってぐだぐだに書き殴るってのも良いな、結果なんて出ないことをただ文章に起こしていく無駄な行為。そう無駄だ。とにかく無駄な行為だ。先に思い悩んでいると書いた、自分の生き方を考えるのと同じ行為をただ書き殴る。
実にくだらぬ。
そしてこれはとても良いことだと何故かそう感じる。

そう感じる時点で自分は情けない存在なのかもしれない、嫌そういう存在なのだ。そうでないとこういった楽しみ方はできない。趣味の悪い自虐の塊が得ることのできる行為なのである。

ああ、情けない。こんな無駄を繰り返して何故?生きているんだろうか?生きていかなければ行けないのか?

 一つ確実なのは欲望である。食欲だの睡眠欲だの性欲だの、某宗教では罪であるとして自分を律する為に禁じてみたり悪と名付けて責めてみたり、そういった物が欲望で有り溺れると宜しくないらしい。でもこの情けない人間は、唯一生きていると思える行為が「食事」や睡眠、セックス・オナニーや物欲を満たす買い物と言った非常に俗っぽいことなのである。それが判っているだけマシなんだろう悩んでもしょうが無いのだろう。だが悩んで責める。自分を責める。情けないと悩んで責める。

神様は全てを許してくれる。

神様はどこに居る?

何故、俺は許しを請う?誰に?何で?どうして?

 なぜならば「死」を選ばない?なんでだっけ?離婚した時は、あんなに死にたがっていたのに。あれから自分の中に何か壁を作ることで「自殺」への願望が消えた。その代わり自分を責めていることに気がついた。そしてその責めから視線をそらして、ひたすら逃げていることにも気がついている。怖いから。怖い。怖い。怖い。怖い。怖いんだ。だから何か自分でも判らない壁を作って逃げている、全力で逃げている。ただ逃げている。それを誰が許してくれる?許してもらいたいのだろうか?自分の存在自体を誰に一体許してもらおうというのだろうか?

全く持って情けない。

 解決の術を知っている。でも、それを見つめることができない。直視できない。実行できないし言葉にも出せない。
それを認めてしまうと、自分の何もかも全否定してしまうような気がする。だから怖くて認めたくないし考えたくない。やっぱり全力で逃げるのだ、得体の知れない壁の中に。

だから自分は情けないだけの存在である。それが今の自分の限界、ずいぶん低い天井の部屋に閉じこもってしまったものだ。

でも、たまには、アホみたいな空を仰ぎ見たい。
そういえば、都会の空は狭いと感じる。俺には窮屈だ。生きる場所を間違えてるのかな。